Koromogawa
地域紹介

平泉文化の源流“ころもがわ”を歩く
中尊寺金色堂は「衣川以北を阿弥陀如来の光り輝く御威光を以て、武力から守るために建立された」とも言われています。
“ころもがわ”は藤原清衡公の母祖の地とも言われています。また、みちのくの歌枕の地として、歌人の西行や松尾芭蕉の旅ごころをかきたてました。
あなたも、1000年前の香りが残る“ころもがわ”を歩いてみませんか。
No.1
奥州市衣川区について
岩手県胆沢郡衣川村は、明治22年4月1日の町村制以降117年間、単独村制を継続していたが平成18年2月20日,水沢市、江刺市、胆沢郡前沢町、胆沢町と合併して奥州市となりました。
衣川の名称は、高檜能山五輪上の谷に天女が舞い降りて、天の羽衣を乾かしたという伝説に由来するといわれます。 “地名”は「ころもがわ」と読み、“川”は、「ころもかわ」と読みます。
No.2
平泉文化の源流を感じる歴史
「続日本紀」によると789年征東大将軍 紀古佐美が衣川に3つの営を築き、アテルイと対峙したことが記されています。この頃から、みちのくの有名な歌枕の地として知られるようになりました。
みちのくの歌枕の地”ころもがわ”
“前九年の合戦”の最中、安倍貞任と源義家の連歌「衣のたては ほころびにけり」「年をへし 糸の乱れの苦しさに」はあまりにも有名です。平安時代の歌人西行が二度訪れ、「とりわきて 心もしみて 冴えぞわたる 衣河みにきたるけふしも」など多くの和歌を残しました。
江戸時代には西行に導かれるように松尾芭蕉も衣川を訪れています。

二つの『衣川の合戦』
衣川は、東北の歴史を変えた二つの“衣川の合戦”の地です。一つは“前九年の合戦”、別名“衣川の合戦”は、藤原清衡公が浄土思想で平和な都市をつくろうとするきっかけとなりました。もう一つ、悲運の英雄、源義経が最期を迎え、平泉藤原氏が滅亡するきっかけとなった藤原泰衡との戦も“衣川の合戦”と呼ばれています。
藤原清衡公の浄土思想は、「前九年の合戦」「後三年の合戦」において非業の最期を遂げた霊を弔うため「川西大念佛剣舞」を創りました。毎年、8月24日には大施餓鬼法会において、その舞は踊られています。

IMFORMATION
衣川歴史ふれあい館
  • 住所:奥州市衣川区日向60-2
  • 電話: 0197‐52‐3750
  • 営業時間: 9:00〜16:30
  • URL:http://zinba.co/
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No.3
地域で継承される郷土芸能
衣川には、大きく2つの郷土芸能が伝承されています。
一つは、剣舞です。剣舞は、世界遺産平泉の浄土思想を受け継ぐ川西大念佛剣舞と同じく平安時代から踊られていると伝承されている大平念佛剣舞があります。もう一つは、三ノ輪流の流れをくむ南部神楽です。江戸時代末期にこの地方に伝わった川内神楽は男型、大原神楽は女形と言われ、更に川東神楽、大森神楽と広がり、伝えられています。
世界遺産平泉の浄土思想を受け継ぐ
川西大念佛剣舞
代々奥州衣川の川西佐藤家に受け継がれ、一般家庭の新仏の供養に剣舞は演じられてきました。現在も春5月3日と秋11月3日の藤原まつりや8月24日のお施餓鬼法会にて「前九年の合戦」「後三年の合戦」で非業の最期を遂げた霊を慰めるために中尊寺で踊られています。
また、平成五年には国の重要無形民俗文化財に指定されています。
なお、剣舞を創った佐野弥左衛門は、金色堂前の広場の一画に葬られ、その墓は現在も剣舞(けんばい)塚(づか)として語り継がれています。

和製オペラともいえる南部神楽
南部神楽は、「式舞」と「劇神楽」があります。
「式神楽」で代表的な演目「御神楽」は、天照皇大神が岩屋から出て世の中が明るくなり、鶏が喜んでいる様子を表したものです。この踊りは、神楽の基本の舞で、これが全ての舞に通ずるといわれています。
「劇神楽」の代表的演目「五條の橋」「田村二代」などは、太鼓や笛や金に合わせて演技者自らセリフを語り、演じます。お囃子に彩られたセリフの掛け合いはまさしく和製オペラです。
なお、映画「リトル・フォレスト 冬春編」では、主演した女優の橋本愛さんが大森神楽を踊っています。

IMFORMATION
奥州市衣川総合支所 総務企画課
  • 住所:奥州市衣川区古戸53-1
  • 電話: 0197-52-3111
  • 営業時間: 9:00〜17:15
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